『お笑えない芸人』芸人の道を諦めかけた若者が“理想の自分”と対峙する青春悲喜劇

レビュー

文:後藤健児

 青春期における時間感覚は世界認識と密接に結びつく。20代半ばの青年、佐原一太郎はお笑いコンビ「激甘酢豚」を組んだ瀬戸口順二と2人でプロ芸人として活躍する日を夢見るが、オーディションもうまくいかない毎日。ときに2人の間にはズレが生じ、まるで住む世界が違うかのように意見や価値観が相違してしまう。彼らは幼馴染や学校の同級生ではなく、年齢差のあるコンビ。若いときはいくつか歳が離れているだけで、相手と自分が見る世界は異なると思うものだ。その後、瀬戸口とはコンビを解消することになり、お笑いの活動もやめていた佐原の前に自身と瓜二つの男が現れる。男は、佐原が芸人として売れている世界線の存在だという(聞かされた直後のカット変わりで脳の検査を受けているのが面白い)。検査の結果、自分の頭は正常で、かつ“売れている自分”は他の人間にも見えている。これはいったい……。

売れなくとも希望に満ちた日々を送っていた頃
(左から)瀬戸口順二と佐原一太郎(演:村山暁、吉野真生)

 京都芸術大学の映画学科で学んだ西田祐香が、卒業制作作品として監督と脚本を務めた『お笑えない芸人』。孤独に苦しむ者がもうひとりの自分と対峙して自己を見つめ直す物語だ。こういったシチュエーションはこれまでにも描かれてきた。妄想であったり、未来から来たりと様々だが、本作では別の世界線。とはいえ、パラレルワールドというよりは、売れない佐原の脳内で作り出された理想像が具現化されたものらしく、つまりは彼の時間と世界への歪んだ認識が生み出した存在だ。
 2人の自分が織り成す奇妙な共同生活がコミカルに描かれる。一人二役(?)をこなした吉野真生の演じ分けが素晴らしい。フィクションに登場する二重人格のような乖離ではなく、いまの延長としてありえる別の自分――売れていなかったころの佐原も“売れている自分”に内包されている――という“線”の長さを感じた。
 佐原は決して人間嫌いやコミュニケーション不全ではないが、日々の生活で出会う人々とは、どうにも親密になりきれないでいる。同じ目的を持っても、コンビのような横つながりの二人三脚の関係には至れない。彼が唯一、腹を割って話せる相方が“もうひとりの自分”だけという物悲しさ(しかも、相手は佐原を癒してはくれず、終始おちょくってくるのだから始末が悪い)。

佐原と“もうひとりの自分・サハラ”の対峙はまさに自己の見つめ直しだ

 同じアパートに住む隣人の村井涼葉と佐原との会話もぎこちない。村井が仕事を辞めたことを聞かされても、お隣さんの住む世界をいまいち想像できていない視野の狭い佐原は、彼女の悩みや苦しみに触れられないでいる。物語を通して劇中では数年の時間が経過しており、佐原の本作内における人生ドラマに登場し続ける村井の表情や佇まいの変容にも注目してほしい(演じる北野七海はスタッフとしてメイクと衣裳も担当。他にも題字を吉野が手がけているなど、本作は皆で作り上げた)。

佐原と村井涼葉(演:北野七海)
異なる事情を抱えた者たちが相手の住む世界を理解しようとしたとき、ドラマが生まれる

 もうひとりの自分に鼓舞され、再び芸人への道を模索しはじめる佐原。しかし、地に足のつかないふわついた彼を、強い存在感でどっしりとこの世界に根を下ろす“売れている自分”が侵食する。狂いだす佐原の世界。笑いと狂気といえば、『キング・オブ・コメディ』(1982年)や『ジョーカー』(2019年)、日本でも『笑いのカイブツ』(2023年)で底なしの懊悩が描かれた。パプキン、アーサー、ツチヤ、そして佐原も笑いを追求した先に“自己肯定”という名のカイブツと相対する。そうして物語は佐原の心の奥底へと深く下りていき、やがて立ち現れたものは“尺度”だった。幸せの尺度が人それぞれなように、つらさもまた決まった物差しなどないはず。西田監督が書き刻んだシナリオからは、そう訴えるかの強い筆圧を感じた。
 お笑いがテーマの作品では、観客を前にした舞台でのネタ披露がクライマックスに位置づけられることがお約束。本作も同様で、あるとき、ある場所で佐原は渾身のネタを見せる。その結果はいかに。コンビ「激甘酢豚」は解散した。激しい酸いの日々しか味わったことのない彼に甘い人生は訪れるのか。“お笑えない芸人”とは誰を指すのか。最後に佐原が自身の世界線に刻みつけたパンチライン=オチ。それを笑えるかどうかは、あなたの時間と世界への認識に関わっている。

『お笑えない芸人』
6月19日(金)ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次公開

作品時間:76分
監督・企画・脚本:西田祐香
出演:吉野真生、村山暁、北野七海、松原康成(5月のアザラシ)、ケースケ(5月のアザラシ)、原田かのん、古結享太朗、平井愛子、林千寿、水上竜士
スタッフ:末釜藍羽、藤岡祐奈、宮下知世、宮田桃葉、北野七海、下山紗朋里、岸部美徳、村山暁、森菜々子、吉野真生、糸川美里
配 給 GeneHeart
©映画「お笑えない芸人」製作委員会